MY HONMOKU
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ばしょ で き ご と
アソカ幼稚園

(元 小港保育園)
 私は、ここの卒園生です。卒園式には白雪姫の劇をやり、私はなんと、王子様の役をやりました。 白雪姫はもちろん園内一の可愛い子?でした。
十二天  十二天(現 北方消防署あたり)では、蟹(かに)が採れました。ここには戦前本牧神社があったそうです。 私の祖父はその門前通りでたばこ屋をやっていました。 周りには遊郭があり、居留地の外国人なども山手の丘の散歩道を通り、ワシン坂(和親?)を降りて遊びにきました。 谷崎潤一郎がこの近くに住み「痴人の愛」の「なおみ」との愛を育みました。 この脇にある小さい港が、小港の語源であり、アイヌ語で小さい港を「ポン・モリ」と言ったことが転じて「ホンモク」と 呼ばれるようになったと言う説もあります。
 今では埋め立てがすすみ、海は沖の方に行ってしまいましたが、当時はこの辺は岬になっており「本牧の鼻」と呼ばれていました。 横浜港に入る直前、この本牧の鼻を通り過ぎると、航海の無事を確信しホッとしたそうです。 その後横浜市の市域が広がり、横浜市の形は、右を向いた人の顔のようになりましたが、本牧岬は本当にその鼻の位置にあります。 不思議な因縁です。ベイブリッジが出来てからは、横浜市の右を向いた顔はめがねをかけたように見えませんか?
大鳥中学近辺  大鳥中学近辺は、ずっと砂浜が続いていて 30分も掘るとあさりがバケツに一杯になりました。
この砂浜と同じような白浜が、江戸時代にはフランス山の下あたりから、赤レンガ倉庫のほうに延びていて関内周辺は入り江になっていたようです。 この砂浜が、クロスビーチと呼ばれ、横浜の語源となったという説があります。
立野の丘  小学校、中学校の9年間立野の丘に通いました。坂の途中に「牛小屋」がありました。牧場は、ここと大鳥小学校の 裏の方にありました。本牧の語源が、もと「牧場」があったという説もありますが、これらは、 その名残だったのでしょうか?。 通ったのは市立の学校ではなかったので、横浜市全域から通ってきた子がいっしょでした。なぜか、この学校には お誕生会でお互いを家に呼ぶ風習があったので、元町や伊勢佐木町の大店の子供の家に遊びにいったりしました。
P X
(ピーエックス)
 周りは全て米軍の基地宿舎でした。小学校低学年のとき、イースターの前日、 基地内で発行されていた新聞の取材を受けました。日米友好のショットを撮るために、 私はアメリカ人の女の子に、卵を手渡しているポーズをとらされました。
撮影後PX(基地内のショッピング兼アミューズメントセンター)まで怖い兵隊に 連れていかれ、ホットドッグとアイスクリームをおごってもらいました。
Area1
Area2
 米軍の基地は、Area1とArea2に別れていました。山手の丘の新山下 よりのところに、オフィサーズクラブ(米軍将校倶楽部、同じ名前の店がマイカル 本牧5番街で一時営業)がありました。私の父はクリスマスの飾り付けの仕事をして いましたので、私はオフィサーズクラブのデコレーションに付いていくのが好きでした。 ここには、スロットマシンがあって1セント硬貨で遊ぶことができました。父の仕事が 終わるまで、スロットマシンで遊ぶのが好きな少年でした。(時効成立!)
マイカル本牧  マイカル本牧の5番街からホテル・ル・ファール本牧のあたりは、アメリカンスクール がありました。裏手の丘の中腹にちょっと平らなところが有り、教会が建っていました。 この教会が火事で焼けたのを見にいきました。その後、この教会は復興しませんでした。
根岸  小学校高学年になって、私は慢性中耳炎が悪化し、小港から八幡橋の耳鼻科医院まで、週に3回づつ 2年間通いました。市電の2系統と11系統が芦名橋、杉田まで行っていました。5系統は洪福寺〜間門、 4系統は保土ヶ谷橋〜本牧三渓園前まででしたね。市電が 間門 の根岸園を過ぎると、パッと海が開け その浜沿いに海苔がずうっと並べて干してあるのが印象的でした。
現在の趣味