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大予言私見
諸世紀10章72番
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天下統一予言説

織田信長が桶狭間の戦いの勝利から 天下布武をかかげ、
徳川家康が豊臣を滅ぼして元和偃武 (げんなえんぶ)を
達成するまでの半世紀余りを予言。               この色 のアンダーラインはLINKです。

 若き方の獅子が
 古き方を負かす。
 1560年5月19日織田信長 (26歳)が約2万の兵を率いて上洛途中にあった 今川義元(41歳)を田楽狭間(桶狭間)に急襲し、 義元を討ち取って、今川勢に壊滅的打撃を与 えた。
 戦の庭で一騎打ち。  かねてから、領地を接してしのぎを削っていた 武田信玄上杉謙信は、1561年信濃 の国「川中島の合戦」であいま みえた。上杉謙信は当時の戦の常識を破り、大将一騎で信玄の本陣に突入。 謙信が信玄に斬りつけると、信玄は軍配で防いだ。 世に有名な謙信と信玄の一騎討ちである。
 金の器の中で
 片目を潰す。
 一方、 マルコポーロが東方見聞録で黄金の国と称したジパング (日本)で、当時 重要な金の生産地は奥州であった。
 藤原氏中尊寺に金色堂を建てるほどに、 奥州は金に輝く地であった。1567年に奥州の 雄・伊達家に誕生した 伊達政宗は不幸にして幼少期に片目を潰し独眼竜政宗と呼ばれていた。
 英知に溢れたダテ男の元祖、政宗の誕生があと少し早ければ、 彼が天下を取っていたのではと言う人が多かった。
 二つの傷一つとなりて
 酷き死を死なむ。
 1614年 大坂城 を責めた徳川家康は、豊臣方との講和条件の 総壕の埋め立ての解釈 が両者で食い違う中、一方的に壕を全部埋め立てた( 冬の陣)。
 1615年4月 豊臣方の再軍備を口実に、 再度大坂を責めた ( 夏の陣)。壕を埋めた上で 大砲で責めたてる家康の周到な執念。 太閤秀吉の築いたさしもの難攻不落の名城大坂城も、家康のこの 2段階攻撃により落城。 秀頼、淀君の母子は隅櫓に火を放ち自害。 秀頼の子、8歳の国松は斬罪。徳川方の残党狩りは激烈をきわめ、 三万を超える首が家康のもとへ届けられたという。この結果、 秀吉が興した豊臣家は二代で滅亡した。こうして元和偃武(げんなえんぶ)と呼ばれる平和の 時代が到来した。


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