★★★  Area  横浜文学散歩  ***作家  ★★★


大佛次郎
ペンネーム
当時鎌倉、長谷寺の大仏裏に住んでいたため、大仏を太郎とするなら、自分は 次郎にあたると考えてつけた。

おいたち
1897.10.9〜1973.4.30 横浜市英町十番地(現在の中区英町)に、野尻政助・きんの三男として 生まれた。父の政助は日本郵船に勤務していた。7歳の春までそこで過ごしたが 東京に転居。横浜市太田尋常小学校入学10日ほどで東京の牛込にある筑土小学校に 移る。都立一中、一高、東大政治学科を卒業。
卒業後鎌倉女学校で国語と歴史 を教えていた。その後、外務省条約局へ勤めたが、書籍の購入費が月給を上まわる 状態が続き、やむを得ず、娯楽雑誌などに原稿を書き始めたのが、大衆文学に進む きっかけとなった。
昭和35年 芸術院会員
昭和39年 文化勲章受章
昭和48年4月30日 死去 東京の病院から遺体を乗せた車は、 ホテルニューグランドの 前に止まり、 従業員全員の別れの挨拶を受けて、鎌倉の自宅に去っていった。墓は 鎌倉の寿福寺にある。

ゆかりの作品
「霧笛」(昭和8年) 異人館のボーイ千代吉と、主人公の英国人クウパー、その愛人 お花との関係を、開化期の横浜のエキゾチックな風物の中で描いた長編小説。
「花火の街」(昭和11年)
「幻燈」(昭和22年)
「赤屋敷の女」
「薔薇の騎士」

代表作
「鞍馬天狗」(大正13年)
「赤穂浪士」(昭和2年)
「ドレフュス事件」
「パリ燃ゆ」
「天皇の世紀」
「帰郷」(昭和24年)


谷崎潤一郎

ペンネーム

おいたち

ゆかりの作品
「本牧夜話」
「港の人々」 谷崎が小田原から引き移って住んだ家は 本牧の海岸にある西洋館。チャブ屋風俗を描いている。
「痴人の愛」 ナオミという奔放な女の行状を描いたもの。 横浜の山手にある西洋館に私(譲治)と奈穂美が住むよう になる・・・・。
「アベ・マリア」

代表作
「春琴抄」
「細雪」
 








獅子文六

ペンネーム
文豪(文五)より上の文六説、百獣の王「獅子」と掛け算の四四・十六を もじった説がある。

おいたち
1893.7.1〜1969.12.13 横浜市弁天通三丁目に、父岩田茂穂、母麻二の長男として生まれた。生後まもなく月岡町に移った。 ここはかつて横浜税関の官舎のあった所で、有島三兄弟が住んだ土地としても 知られている。小学校は老松小学校から、父の死後は慶応義塾の幼稚舎に移り、 普通部、理財科予科から文科に転じ、中退した。二度の渡仏の後、演劇研究 では生計が成り立たないため、アルバイトのつもりでユーモア小説を書くことに なっていく。
昭和44年 文化勲章受章
同年12月13日、76歳で死去。

ゆかりの作品
「やっさもさ」
「故郷横浜」
「父の乳女」
「横浜の悲哀」

代表作
「海軍」
「自由学校」
「てんやわんや」
「娘と私」
「南の風」
「おばあさん」








吉川英治

ペンネーム
吉川雉子郎、吉川独活居、杉田玄人、望月十三七、 中條仙太郎、不語仙亭、朝三李四、杉村亭々、吉川英治
おいたち
1893.7.1〜1969.12.13
神奈川県久良岐郡中村根岸に吉川直広の次男 として生まれた。明治31年千歳町の山内尋常 高等小学校に入学、転居により南区南太田の 尋常高等小学校に転校。父直広の事業の失敗 により明治36年中退。時に英治11歳。以後印章 店の住込店員、活版工、土建労務者、横浜ドッグ 船具工などを勤めた。18歳の時、ドッグでの作業中 船底に転落し重傷を負い野毛山にあった十全病院 に入院。退院後上京し、工員などをしながら、 日本新聞川柳欄に投稿をはじめ、大正3年三越百貨店 が募集した「文芸の三越」に川柳一等当選。以後 懸賞小説の入選などを経て、大正10年、東京毎夕 新聞社に入社。以後精力的に作品を書き続け、世に 認められるようになっていく。
昭和35年 文化勲章受章
昭和37年 毎日芸術賞受賞
同年9月7日、癌の悪化により死去。

ゆかりの作品
かんかん虫は唄ふ(昭和14年)
忘れ残りの記
ナンキン墓の夢
代表作
鳴門秘帖
宮本武蔵
新・平家物語
私本太平記
新・水滸伝







長谷川伸

ペンネーム
おいたち
ゆかりの作品
代表作

直木三十五

ペンネーム
おいたち
ゆかりの作品
代表作

山本周五郎

ペンネーム
おいたち
ゆかりの作品
代表作
有島三兄弟

ペンネーム
おいたち
ゆかりの作品
代表作


中島敦

ペンネーム
おいたち
ゆかりの作品
代表作
中村汀女

ペンネーム
おいたち
ゆかりの作品
代表作

松永延造

ペンネーム
おいたち
ゆかりの作品
代表作