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太田道灌 】
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足利政権は鎌倉に鎌倉公方を置いた。 |
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扇谷、山内はじめ犬懸、宅間の系統 |
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1457(長禄元)年、太田道灌は武蔵江戸城を築いた。 |
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1457(長禄元)年、太田道灌は武蔵川越城を築いた。 |
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太田道灌は扇谷上杉氏に仕え、この地に住居を構えた。 |
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菩提寺=法雨山大慈寺、墓=洞昌院境内北側 。 |
室町時代の武将、歌人。扇谷上杉定正の家臣(家宰)。名は資長(幼名は鶴千代丸、初名は持資)。
1458(長禄2)年に剃髪し道灌と号す。
江戸城(1457《長禄7》年)を始め川越、岩槻城を築いた。歌集「慕景集」があり、世に軍法師範
といわれ文武両道の英傑であった。1486年、主君上杉定正に謀殺された(享年55歳)。
死ぬ間際に「当方滅亡」と言い残したという。
道灌が遠乗りにでかけた時、突然のにわか雨にあった道灌は農家にかけこんだ。
出てきた少女に蓑を貸りたいというと、外へ出ていった少女は
山吹
の花一輪を持って戻り、
だまってそれを差し出した。花の意味がわからぬまま、道灌は蓑を貸してもらえず帰った。
その夜、道灌は近臣にこのことを語った。すると、中村重頼という近臣が、
「後拾遺集の中に醍醐天皇の皇子中務卿兼明親王が詠まれた
『七重八重花は咲けども山吹の実の(蓑)ひとつだになきぞかなしき』という歌がある。」
と告げた。道灌は己の不明を恥じ、歌道に精進したと伝わる。
山吹伝説は、埼玉県越生、東京都豊島区高田面影橋付近、東京都荒川区町屋小台橋周辺、
横浜市金沢区六浦上行寺裏山など各地の山吹自生地に伝わる。
江戸中期、湯浅常山の常山紀談に発表されてから有名になった創作話であったと思われる。
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太田氏系図
━ 56清和天皇━━ 貞純親王━━ 源経基━━ 多田満仲━━┓
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┗┳ 頼光━━ 頼国━━ 頼綱━━ 仲政━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┗ 頼信━━ 頼義━━ 義家━━ 義親━━ 為義━━ 義朝━━ 頼朝 ┃
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┗━ 頼政━┳ 仲綱━┳ 宗綱
┃ ┗ 広綱━━ 隆綱━━ 国綱━━ 太田資国━━━━┓
┣ 兼綱━━ 頼茂━━ 頼氏 ┃
┗ 広綱(仲綱養子) ┃
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┗━ 資治━━ 資兼━━ 資房━━ 資清━┳ 資長(道灌)━━━━━━━┓
┗ ○━┳ 資忠(道灌養子) ┃
┗ 資家(資忠養子) ┃
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┗┳ 資康━┳ 資貞
┃ ┗ 資高━━ 康資━━ お勝(徳川家康側室)
┗ 資忠━━ 資家(岩槻)━━ 資頼━━ 資正━━ 氏資
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人物 太田道灌 |