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新港埠頭 − 昔 −
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横浜港の原形は、砂嘴である。沿岸流が土砂を積み上げ砂州が嘴の如く海に突き出す。
緒方洪庵に蘭学を学んだ福沢諭吉は、1858年横浜を訪れた。しかし洋学者でありながら看板
ひとつ読み取れない自分に呆然とし、福翁自伝に次の如く書いている。
「今まで、数年死にもの狂いになってオランダの書を読むことを勉強してきたが、
看板すらも読む事は出来ない。今世界では英語が普通に行われているとはかねがね
聞いていたがあれは英語というものに違いない。一切万事英語と覚悟を決めて…・・・・・・・、」。
当時の貧寒とした横浜風景より世界そのものを感じとったのは、さすが福沢であったと言う外ない。
町人は自由に入れるが、帯刀者は入れなかった当時の横浜関内で福沢はどうやって入ったので
あろうか。
横浜港が明治政府にとって大きな財源でありながら金のないこの政府は近代的な港湾と
しての築港がおくれ、この時期(明治22年)どういう分けか、アメリカ合衆国が、
旧幕時代の馬関戦争で幕府から取り上げた賠償金を返してきた。この金で新港埠頭の初年度工費
がまかなわれた。
戦後横浜港は殆ど全港米軍に接収された。神戸と並んで日本の2大港のひとつが占領軍に
取り上げられる等という事は、敗戦による勝利国への賠償として最も大きなもののひとつ
ではなかろうか。
横浜のホテルでは、出来立てのホテルに感ずる浮き立つような印象はなく、
50年も経つと古色を帯び、重厚な風格が出てくるのではないかと思ったりした。
神戸の様な華やけで浮き立つ様なホテルではなく、横浜が風土としての歴史認識が
よく作用している。両都の土壌がこうもホテルに影響するものかと考え込んでしまった。
司馬遼太郎
「街道をゆく」 第21巻「横浜散歩」より
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