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Area 横浜はじめて物語
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1853年、ペリーが来航し、太平の眠りは覚まされた |
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1854年3月31日 神奈川に近い横浜村で締結され、鎖国体制の終わりをつげた |
| 横浜開港 |
1859年6月2日 横浜港が開港した |
| ホテル |
1860年 オランダ帆船ナッソウ号船長だったフフナーゲルが「横浜ホテル」を開業 |
| パ ン |
1860年 内海兵吉がフランス軍のコックから焼き方を教わった |
| 競 馬 |
1862年 横浜新田を開拓中に、造成地で本格的な競馬会を開催 日本最初の近代競馬場が1867
(慶応3)年に根岸に完成 |
| 牛 乳 |
1866年 リズレーが牧場を開く |
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文明開化はアッという間に、日本中に広がっていった |
| ビール |
1869年 ジャパン・ブルワリーが山手46番に造られ、ビール醸造が始まった |
| 電 信 |
1869年 8月電話架設、試験開始(横浜裁判所−横浜灯明台役所間)
12月25日、東京−横浜間架設 公衆電報受付 |
| アイスクリーム |
1869年 町田房造、馬車道、常盤町5丁目に「氷水店」を開き、
「アイスクリン」を発売 |
| 公 園 |
1870年 最初の洋式公園、
「山手公園」が開園
日本人も使えるパブリックガーデンとしては、
1876年、「横浜公園」が最初 |
| 野 球 |
1871年 居留外国人チーム対貨客船コロラド号(太平洋郵船)水夫チーム
横浜公園予定地のクリケット・グランドで |
| ガス灯 |
1872年 日本社中(高島嘉右衛門らが設立した会社)によって、大江橋〜
馬車道〜本町通りに点火 |
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1872年 新橋−横浜間 9月12日開業式 翌日から営業 |
| 石 鹸 |
1873年 堤磯右衛門がフランス人技師ボエルから製法を教わり工場設立
7月から販売 |
| 近代水道 |
1873年 横浜上水 1887年にはより近代的な横浜創設水道が完成
パーマーの設計、監督によるもの |
| マッチ |
1875年 持丸幸助がアメリカから輸入した機械で、平沼工場で造り始める |
| 電 話 |
1877年 電話線を利用し通話実験に成功 グラハム・ベルが電話を発明(1876年)した
翌年! |
| テニスコート |
1878年 「山手公園」にテニスコートオープン |
| 自転車 |
1879年 梶野甚之助が蓬莱町で製造開始 居留地で外国人が乗っていたのはもっと早かったらしい |
一面的な横浜像
「横浜もののはじめ」が人気のある理由として、「横浜の歴史に関心を寄せる場合の案内役の
ような役割を果たしている」 と述べたが、実はそのこと自体に問題があるように思われる。
横浜にはいち早く外国の文化が流入、摂取され、全国へと 伝播していったことは事実である。
しかし、この事実を肥大させ、日本の近代史に占める横浜の位置を「文明開化のふるさと」
といったように特徴付けるのは正しいだろうか。
外国文化の摂取という現象は、横浜の歴史にとっても日本の歴史にとっても 部分的なものにすぎない。
もう一方では、保存され、発展させられた日本固有の文化もあったはずである。
日本に欠けていたものだけが貧欲に摂取されたのであって、それが「もののはじめ」現象だと
考えられる。
日本最大の外国人居留地があった横浜は、国際色豊かな都市であった。それは、
さまざまな民族が固有の文化を 失うことなく、共存していたということを意味する。
日本的なものの持つエキゾティシズムこそが外国人を引き付けたのであって、
国際文化都市としての横浜は、そうであるからこそ、日本趣味の豊かな町でもなければならなかった
のである。 外国文化が輸入される一方で、日本文化が輸出されるのでなければ、
国際貿易港都とはいえない。外国文化だけが 幅をきかす被占領地のような町ではなかった。
「文明開化」という言葉には、「西洋化=歴史の進歩」というような、したがって「脱亜入欧」
に通ずるような含意があり、 横浜が持っていた国際性の内容にふさわしくない。
本書がこの言葉の使用を避けたのはそのためである。
「もののはじめ」現象をもって、横浜を「文明開化のふるさと」というように理解するのは、
外部からの一面的な見方であり、 内部からそれに迎合するのは、卑屈でないとすれば、
横浜の文化的な伝統に対する無知である。
このテーマには、このような問題のはらまれていることにも注意していただきたいと思う。
−横浜開港資料館編集「横浜もののはじめ考」より
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