大蔵幕府跡が一望できる大倉山中腹にある高さ約2mの
層塔
。
建久10(1199)年1月13日没(享年53歳)。前年の12月27日、
御家人稲毛重成
が亡妻の追善供養
のため
相模川に架橋
し、頼朝はその落成式出席の帰路落馬したことが原因とされる。
鎌倉時代の公式の歴史書「吾妻鏡」で建久7〜9年、及び頼朝が死去した建久10年1月までが欠落
していることから、死因については脳溢血による落馬、糖尿病、北条家の謀略説など幾多の説が
生まれるもととなった。
頼朝の墓は当初、大倉幕府の東南に頼朝が父義朝の菩提を弔うために建立した
勝長寿院(大御堂)
に祀られていたが、その後、現在の墓の石段下の西側にあった法華堂に遷されたと思われる。
法華堂
は頼朝の持仏堂であり、後、三浦氏滅亡のドラマの現場となった所でもある。安永8(1779)
年頼朝の子孫、薩摩藩主島津重豪が再建したのが現在の塔 (写真) である。
楠匂ふ墓の時雨にあひにけり 竹亭
ここに開きし頼朝が 幕府のあとは何かたぞ
松風さむく日は暮れて こたへぬ石碑は苔あおし 鉄道唱歌8番
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